真嶋潤子が考えていること

CLD児への配慮
 
 去る2014年9月6日(土)に大阪YMCAで、日本語教育学会の「関西地区研究集会」で話す機会があった。演題は「グローバル化時代の日本語教育 –社会的マイノリティーへの配慮−」で、以下のような内容の話をさせてもらった。
 
 当日の「2014年度日本語教育学会 第6回研究集会 関西地区(大阪) 予稿集」から「1 はじめに」の部分を抜粋する。

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1 はじめに 
 本稿の目的は、今この「グローバル化」した時代にあって「日本語教育」の分野で考えるべき事は何なのか、どこまでなのか、今のままで良いのかということを、参加者のみなさんと一緒に考えるきっかけを提供することにある。
 日本語教育学会は、これまでその時代時代の要請に応えるべく、あるいは一歩先を行くように、日本語教育の課題を捉え、取り組んで来ている。それは毎年の学会大会や学会誌『日本語教育』の編集方針や特集などを見るとよくわかる。しかし本稿で中心的に取り上げようとしている「CLD児」1について考えるとき、この問題は従来取り組んで来た様々な目的を持った成人への日本語教育とは違った、難しい側面を持ったテーマであることに思い至る。現代の日本社会が抱える重要で喫緊の課題であるとわかっていても、「年少者のことはわからない」「専門外だ」「子どもはちょっと」と、後ろ向きになることが多いのではないだろうか。とりわけ、母語が確立しておらず、心身ともに発達途上にある子どもたちへの言語教育は、母語の喪失を心配しつつ、異文化教育や発達心理学の側面や保護者の思惑とも絡んで問題が複雑である。多くの大学関係者・研究者も「大学生への日本語教育」あるいは「目的別の(成人への)日本語教育」の実践や研究で手一杯だという人が多数であろう。外国につながる子どもたちが日本の公立学校にいて苦労していることは知っていても、そもそも自分も経験したことのないことであり、生半可な興味や正義感や、成人向けの日本語教育の知識や大人に教えた経験だけで解決するものではないこともわかっている。また、最近内閣府が検討を始めたという(産経ニュース 2014.3.13)「毎年20万人の移民受け入れ」といった政治的な動きも絡んでくると、お手上げ状態で思考停止してしまうのではないだろうか。
 そうは言っても、日本で生まれ育つCLD児は増え続け、その対応は待ったなしである。『日本語教育』でもこれまでも何度も年少者については議論の俎上に上ってはいる(伊東 1999;石井2006ほか)。学会大会でもパネル発表や研究発表の積み重ねがあることも事実である。しかし、今回あえてこのテーマを取り上げるのは、私自身が縁あって10年近く前から関わっていることもあり、また一般に「外国人児童生徒のことは専門外」と食わず嫌いをしている人もいるかもしれないと思うので、バイリンガル教育の基礎的知識も整理しながら理解してもらい、当事者意識とまでは行かなくとも、関心を持ってもらえれば(まわりに頑張っているCLD児がいたら肯定的な態度で接したり励ましたりしてもらえるかもしれない)と思うからである。国内の「社会的マイノリティー」の最たるものである、日本語を母語としない児童生徒の言語教育のことを考えるとき、子どもの「日本語」の「教育」だけを考えていては、大切なものを掬い損ねるのではないかと思うのである。CLD児の言語教育を考えるなら、短期的な対処療法でなく、まず理想的なあり方を考えるところからはじめたい。また実証研究に基づく議論ができるよう、この分野の研究の発展にも期待している。「日本語教育学会」ではあるが、厳密に「日本語」の「教育」だけしか見ないということでなく、言語形成期を日本で過ごすCLD児の日本語も含めた言語教育全般を全人的な発達、認知力の発達も見据えて考えることは間違ってはいないし、時代や社会の要請でもあるのではないだろうか。2

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1 「文化的・言語的に多様な背景を持つ児童(Culturally Linguistically Diverse Children)」のことで、カミンズ(2011)に従って、本稿ではこれを使用する。「CLD児」とほぼ同様の意味を表すのに、「帰国・外国人児童生徒」(文科省)、「外国にルーツを持つ児童生徒」「外国につながる子ども」(塩原)、「帰国・渡日生」(大阪府教育委員会)、「移動する子どもたち」(川上)、「往還する子ども」(志水)など多くの表現が使われている。
2 実際、内閣府の発表に関する報道でもそれに関する報道でも、少子高齢化社会に不足する「労働力」としてのみ、「外国人」「移民」を受け入れるべきだ・べきでないという議論がなされており、家族や子どもが呼び寄せられたり、生まれたりすることは想定されていないようである。