真嶋潤子が考えていること

 
自閉症スペクトラムとCEFR-CVは実は無関係ではないかも

外国語教育・言語教育における個別性の問題
−コミュニケーション障害を持つ学習者の存在−
 
 ここ数年、マスコミや出版物でも目にするようになった言葉に「アスペルガー障害」「広汎性発達障害」「自閉症スペクトラム」といったものがあります。言葉の教育を行う者としては、このような「コミュニケーション障害」の子どもや大人が学習者グループに存在することを無視せず、念頭においておく必要があるという指摘をまずしたいと思います。そして、コミュニケーション障害を持つ人々について、もっと研究がなされるべきだと思いますし、その上で、本人とまわりの健常者に何ができるのかを考えて行きたいと思います。
 
 私事ではありますが、私の身近にアスペルガー障害と診断されている人がいるので、私も発達障害の専門家ではないものの、かなり長い間この障害と向き合って、つき合って来ました。ここに記すのは、この障害者本人がいくばくかでも社会に貢献したいという希望から出たことで、そして私自身の、言語教育を生業としている者としての責任も感じるからです。世の中にはコミュニケーション障害をもつ「障害者」がいることを認識し、彼等の外国語・言語学習をどう支援することができるのか、考える必要があるのではないかという問題提起をしたいと思います。
 
 アスペルガー障害や自閉症スペクトラムを扱ったモノの本によると、「人の話を聞き取る事を苦手とする人が多い」といったことが書かれています。しかし、実際は(個人差はもちろんありますが)、聴力が低いといった耳の問題ではなく、音声を脳で処理する際に、うまくいかなかったり時間がかかったりするように見受けられます。うまくいかない場合は、とんでもない聞き違えをします。
 
例: A:ねえ、アイフォーンシックス(iPhone6)だけどね、...。
   B:??? (「え?ダイコンテキスト??何の事?」)
 
といった具合です。
 また、相手の意を汲むとか、行間を読むといったことが苦手で、「文字通り」にしか受け取れないということもよくあるようです。(もちろん健常者では絶対起こらないなどということは言えないのですが。)
 
 A「ねえ、そこにペンある?」
 B「うん、ある。」(と言って、何もしない。)
 A「...? あの、ペン貸してほしいんだけど」
 B「あ、そうなの。はい。」
 
 この会話でAは健常者で、Bはアスペルガー障害者であり、言葉を字面通り、額面通り理解し、その通りにしか行動できないアスペルガー障害の典型例だと考えてください。つまりBは、相手(A)が、そのような質問(ペンの有無を問う)をした意図は何か、何を目的にしてそう言っているのかに、頭が回らないようです。
 
 本人には、悪意はもちろんありませんし、成人の場合、幼少期からずっと色々な場面で、コミュニケーションに支障が出て、「変な奴」だと思われたり、誤解されて人間関係を上手く構築できなかったりする経験を積み重ねてきているのです。それに対して、「話す練習をもっとすればいい」とか「努力が足りないからだ」とか、障害者自身に変化を求めて健常者に合わせることを求めることが普通に行われていることではないでしょうか。
 コミュニケーション障害者の場合は、身体障害者などのように障害が外からは見えないため、どこが問題なのかわかりにくいことが多いです。しかしながら、上記の例のような「聞き違い」や「行間(場合によっては文脈や「場の空気」)が読めない」というのは、健常者であれば瞬時に行う運動神経が司るようなもの(瞬時の判断)ですから、それが「できないこと」が障害のせいであると理解してあげる必要があります。これは言う程易しいことではなく、健常者にとっては一種のパラダイム・シフトが必要だと言っても過言ではないと思います。考え方に柔軟性が必要なのです。目の前の「普通の人」に見える人が「自分ではどうしようもない障害を抱えている」と理解することです。
 アスペルガー障害などの説明や「対処法」については、このところ多くの文献も出て来ているので、詳しい事はそちらに譲るとして、そのような人への外国語教育の問題については、管見では見当たりません。
 
 このような発達障害を抱える人が、外国語を学ぼうとする場合、どうやら聞く事が苦手であることや、相手の言動に瞬間的に(読み直しのできる書き言葉と違ってリニアに、つまり線状に)対応しなければならない口頭コミュニケーションは、極めて難しく、努力してもいくら頑張ってみても報われないことがあるようです。
 言語教育に関わる人は、たいてい言語学習の得意な人、優等生であることが多いため、できない人の気持ちに寄り添う事ができない、あるいはどうしていいかわからないことがあるのが普通ですが、意識して学習者を観察しないと、このようなコミュニケーション障害を抱える人を、単なる「劣等生」「勉強不足」の落ちこぼれとみなしてしまったり、「本人が悪い」「努力していない」あるいは「わざとやっているのか?性格が悪い」と断罪して突き放してしまう危険性を持っていると思います。
 努力しても障害があってできない時には、特別な支援が必要でしょう。視覚障害の人に「見る努力が足りないのだ」などと言う教師はいないでしょう。コミュニケーション障害の人に、「話す努力が足りないのだ」「もっと練習すれば?」「もっと人と話しなさい」という語学の先生はとても多いようです。コミュニケーション障害といっても種類や程度に個別性が顕著ですが、アスペルガー障害は、立派な「精神障害」として「障害者手帳」も発行される正真正銘の障害です。これは社会的にも、そう言う人が社会生活をうまく送れるように支援していこうとみなが協力することになっているので、是非一人でも多くの人に理解してもらいたいところだと思います。
 
 このような「一見普通の人」だが実はコミュニケーション障害を抱えているというような人の語学学習については、ほとんど研究も行われていないようなのですが、アスペルガー障害だと診断される子どもたちは増加傾向にあるそうですので、今後益々言語教育の分野でも、その問題の理解と、それへの対応策について研究が望まれます。
 今後、身近にいる被験者・研究協力者の協力を得て、本人の弁も含めて紹介し、考えていければと思っています。
 
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