真嶋潤子の最近の活動

欧州現代言語センターの国際会議とそこで感じた違和感 (その2)

 
 今、民主主義についての古典を読んだりして勉強しているところです。昨年12月にグラーツであった欧州評議会傘下の現代語センターでの会議に出席して違和感を感じたからです。その「違和感」ですが、少しその内容を思い返して今の時点で考えていることをメモしておきます。
 私のモヤモヤは、言語教育(政策)が、現代の社会的な問題にどのように関われるのか、関わっているのか、道筋が見えないまま「民主主義」を連呼するのはどうかなということが一つです。言語教育は大文字の「政治」とは独立した論理で動いていけるのかもしれないし、そうではないかもしれない。それについては私自身まだ答えを出せていません。「民主主義」が政治のあり方の一つだとすれば、これを掲げるということは一つの政治的価値観を掲げるということです。言語教育に政治的価値観を持ち込むこと自体を否定するつもりもないし、その是非を云々するつもりはありません。でもそれならば言語教育と「民主主義」という政治的価値との関係について十分な説明や議論がなされて然るべきだと考えます。私が知らないだけかもしれませんが、本当に議論は尽くされたのでしょうか。Russia’s invasion to Ukraina という表現がセンター長からありました。(2023年5月のECML研究テーマの説明録画)
 「民主主義のための言語教育」「コンフリクト/衝突を回避・克服する言語」…という表現が出てくるのですが、実際は言語教育では国際紛争が収まらないことは我々同時代人が目撃しています。しかしそれには触れず、「民主主義のために」言語教育の実践や研究を進めようと言います。会議では、「私たちは、困難な時代…ね、今そうでしょ…そういう時にあっても、いやそういう時こそ、民主主義のための言語教育を進めなければならないと思います」(会場は肯定的なムード) という言い方で、「民主主義」と「言語教育政策」を結びつけていました。今年から2027年にかけての欧州現代語センターの研究テーマは「民主主義の心臓部にある言語教育 (Language Education at the Heart of Democracy)」です。でも肝心の democracy についての説明はありません。
 現代語センターは欧州評議会が出している『民主的な文化への能力の参照枠 (The Reference Framework of Competences for Democratic Culture)』 を参考にしているようです。この本には「民主的文化」について一応の定義が載っています。民主的文化の能力として、公的な審議へのコミットメント、自分の意見を表明し、他人の意見に耳を傾ける姿勢、意見の相違を平和的に解決する態度、多数の意思によって全体の決定が下されることの承認、しかし同時に少数派とその権利に十分配慮する根本態度といったことが書かれています。抽象的な言葉としては美しいのですが、現実に欧州、特に主導的地位にある西側欧州がこれを文字通り実行しているのか、かなり疑問が湧いてきます。例えばフランスでは公共の場でヒジャブを着用することが制限されています。昨年アタル首相は学校でのアバヤ(身体を覆う長い伝統衣装)の着用を禁止しました。違反者の多くは20歳代の女性で、ヒジャブをつけて街を歩いていると、「脱げ」と通りがかりの女性から言われて口論になっている映像も公開されています。彼女によると「自分は親にも夫にもヒジャブをつけろと言われたわけではない、自分の意思でそうしてるんだ」ということです。ヒジャブをつけることが公共の安全を害するでしょうか? フランス社会はどう考えても実態を建前と一致させるよう努力しているとは思えません。ドイツではイスラエルを批判することが「反ユダヤ主義」というレッテルを貼られて事実上禁止されています。ドイツに住むアラブ系の人々はイスラエルの暴虐を苦々しく思っていることでしょう。でも彼らはその思いを公的に表明することができないのです。これが欧州評議会が言うところの「民主主義」なのでしょうか。
 つまり問題は「民主主義」という言葉で何を理解しているのかということが判然としないまま、特定の価値観を大前提として何か相手を黙らせるための殺し文句として道具化しているのではないかという疑念を拭えないことなのです。ロシアのウクライナ侵攻を受けて欧州評議会はロシアを追放してしまいました。プーチン大統領のロシアが善だというつもりはもちろんありませんが、ではその意味でウクライナの現政権の体制は「民主主義的」なのでしょうか。法的には既に資格を失なっているにもかかわらず、ゼレンスキー氏は大統領の座に居座っています。「この戦争はもう10年続いている」とはロシア軍当局だけでなく、ウクライナ軍の司令官自身が口にしています。ウクライナの戦争は当事者にとっては2年前に始まったわけではないのです。ウクライナではいわゆる「マイダン革命」以降、特に2019年以降は地域言語としてのロシア語に対して使用を制限・禁止する措置が段階的にとられてきました。人口の3割近くを占めていたロシア語話者の中には多数派の横暴によって自分たちの文化を奪われたと感じた人も多いでしょう。今日の相互殺戮の背景には明らかに言語と「民主主義」の問題があるのに、どうして欧州現代語センターはそのことを真っ先に問題にしないのでしょうか。欧州評議会から追放されたロシアのような国は非民主主義の独裁国家だと決めつけて、他方で少数派を抑圧する国家のことには目をつぶる、それが西欧の言う「民主主義」なのでしょうか。
 「人権」もまた欧州評議会の基本的な価値観に含まれています。今パレスチナで起きている事態について「人道危機」だからどうにかしましょうと西欧諸国は口にします。でもそれは人が暴力を振るわれて血を流しているのに、それを止めようともせず、怪我したのなら絆創膏を貼ってあげましょうと言っているに等しいのではないでしょうか。ハマースが権威主義的統治に傾いているとしても、その外側のイスラエルの構造的で凄まじい暴力に目をつぶっていいのでしょうか。戦争というのはどうあっても社会を非「民主的」な体制に追い込みます。愛国的であれ、奉仕の義務に背くな、心を一つにしろ、体制に従え云々。西欧の外で起きている暴力と殺戮を容認しておいて、表面上自分は手を汚さないでいるかのように「民主主義」を唱えることが可能なのでしょうか。欧米に靡かない国を「非民主的」だと言って一方的に非難できるのでしょうか。
 私なりに自分のもやもやをまとめてみると、とりあえず今の時点ではこういうことです。
1 言語教育と政治的価値観は独立に議論できるのかできないのか、ここが曖昧なままであること。西側西欧諸国から「独裁」のレッテルを貼られてきたソ連、そしてロシアでも言語教育は発達しています。
2 現代の世界には気が重くなるような現実がたくさんあります。そうした現実に触れることなく抽象的に「民主主義」を唱えても、果たして説得力があるのでしょうか。浮世離れしている感じがどうしても否めないのです。
 

(2024年8月記)

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