真嶋潤子が考えていること

 
 2015年7月に言語科学会第17回年次国際大会が大分県の別府であったので、行ってきました。会員ではなかったのですが、ロンドンのキングズ・カレッジのF・ハッペ教授を招いて、基調講演とシンポジウムが行われたので、それを目当てに行ったわけです。ハッペ氏は言わずと知れた自閉症スペクトラムの専門家で、『自閉症の心の世界』という邦訳書もあります。基調講演は「自閉症スペクトラム障害において言語は認知機能の低さや違いによってどのように影響を受けるか」(How is language affected by cognitive deficits and differences in Autism Spectrum Disorder?) というものでした。
 


1. はじめに
 以前は自閉症の中心問題は言語の障害だと考えられていたが、今日では社会的コミュニケーションに焦点が当てられており、統語論、形態論、音韻論では他の対応グループと変わりがないとされている。
 語用論と意味論では違いが認められるが、いかなる原因で自閉症スペクトラムの人が機能言語の発達に遅れを見るかは分かっていない。
 この講演では自閉症スペクトラム障害(ASD)の言語使用の理解に関して「心の理論」の欠如と「中枢性統合理論」の弱さという2つの認知理論を取り上げる。
 
2. 「心の理論」の欠如という説明
 ASDに特徴的な社会性やコミュニケーションの低さは「心理化」あるいは「心の理論」の欠如に起因しているという説明はよく理解できる。心の理論は他者の行動を理解するために他者にも(自分とは違った)心理状態があるということを理解する能力である。我々は他者が誤った思い込みを抱いたことを理解するのに、何の苦労もなく心の理論を動員している。有名なサリーとアンの課題で、サリーは自分の留守中自分の物がアンによって他の場所に移されてしまったことを知らない。戻って来たサリーは最初にどこを探すかという単純な心の理論のテストにASDの子供は間違えてしまう。重要なことはこのテストの結果が日常生活における「心が読めない」現象と一致していることである。何かを装って言うことができない、秘密や嘘を理解できないといった他者の視点に立つことができない問題と共通している。
 
2.1 心の理論とASDのコミュニケーション
 ASD者の実際的な問題は、話し手と聞き手の意図を汲み取ることができないことである。「曖昧な表現」を過度に字義通りに受け取ってしまうことが頻繁に見られる。'We will be going swimming in the mini bus'や誰かが'cried his eyes out' といった表現をしたら、彼らは混乱してしまう。
 定型表現、皮肉、嘘、罪のない嘘、冗談、口実、二重のはったりなど、話者がなぜ文字通りではない表現を使うのかを説明させる課題をASD者に与えるテストが多くある。このテストの成績は誤りの信念課題(例:サリーとアン課題)の成績と明らかに相関関係がある。さらに高機能のASD者は多くの課題をクリアするにもかかわらず、他者の心理状態に関して定型発達者や非ASDの知的障害者には見られない単純な誤りを冒してしまう。例えば子猫を少女に売りつけたい女性が「買わないとこの子猫たちを溺れさせてしまうことになるわよ」と言ったとする。それを聞いたASDの被験者は「それは冗談だ」と答えてしまう。(買えと迫るための表現の裏にある話者の意図を汲み取り損なっているわけである。)
 私はASD者が比喩的な表現を理解する際に心の理論の障害が関係しているかどうか見るために、関連性理論(Relevance theory)を援用した。その結果、隠喩を理解するには一次的な心の理論が必要であることが示された。(例えば、文字どおりに解釈できる直喩的な'John is like a rock'ではなく、'John is a rock'のような表現。) そして皮肉を理解するには二次的な心の理論が必要である。
 
2.2 ASDにおける心の理論と言葉の習得
 ブルームの研究が示しているように、定型発達の子供は新しく聞いた単語を単純に今見ているものにラベル付けしたりはせず、話者の目や指差しなども含めて、話者の意図を汲んで学んでいく。確かに単語習得の実験が示すところでは、自閉症スペクトラムの子供は話者の意図を汲めずに、その結果新しい単語を新しい対象に結びつけるのに失敗することが多い。これは自閉症スペクトラムの子供の言語習得が遅いという経験的事実を部分的に説明している。しかしそれでも彼らの多くは言葉をそれなりに覚えていくのは何故だろうか。これはまだ十分に解答の出ていない問いだが、自分の研究から仮説的なヒントが得られるように思う。自閉症スペクトラムの子供の単語習得過程が定型発達の子供と違った回路を通っているとしたら、それを理解することは彼らの言語習得を容易にするために重要だと思われる。
 
2.3  言語能力と「心の理論」課題の成績
 ASDの子供の多くは第一次的な誤った信念について「心の理論」課題をこなせないが、それでも少数の者はこの課題をクリアできる。そして課題をこなせるかどうかはASD者の言語能力と大きく相関しているように思われる。ASDのグループは定型発達児や精神遅滞児に比べて同じレベルの課題をこなすのにより高い言語精神年齢に達している必要がある。これは心の理論課題を定型発達児が直感的にこなせるのに対し、ASD児は言語を媒介とした別の回路を通らなければならないせいだと、研究者が解釈してきたものである。
 
3. 自閉症スペクトラムにおける細部認知スタイル
 私と同僚は自閉症スペクトラム者における社会性のなさは単純な認知的解釈で説明できるものではなく、様々な自閉症スペクトラム障害の基礎を作っている遺伝的、神経的、認知的な要素に細分化されると考えている。そして自閉症とは様々な要因が複合して協働して、その特徴を表すものだと考えている。「心の理論」欠如説はそうした複合体の一部にしか過ぎず、同一性への嗜好、認知のばらつき、特定の能力といったすべてを説明できるわけではない。しかしこれらの特徴はフリスが「中枢性統合の弱さ」と名付けた細部に集中する認知のあり方を反映している。細部を文脈の中で統合して把握して抽象化する能力である中枢性統合が自閉症スペクトラムでは弱いことが、言語獲得では次のような問題と繋がっている。
 
3.1 自閉症スペクトラムにおける弱い中枢性統合と言語
 自閉症スペクトラムグループは定型発達グループのように単語を文の中に自然に統合することをしない。これは同型異義語を含む文をを朗読させる実験でも明らかである(例えば’In her eye there was a big tear’という文章を読ませる実験)。そしてこの実験結果は心の理論の成績とは相関が見られない。同様に言語的統合の弱さと実行機能(exective function)、特に抑制制御(inhibitory control)の弱さとは独立していることも研究で示されている。文章完成法検査を用いた私たちの研究でも、自閉症スペクトラムグループは文全体の意味を参照することに失敗することが多い(例えば’Little boys grow up to be men and…?’という文章に続けて、普通は’strong’を選ぶが、ASDグループは’women’を選ぶ者が多い。)さらにこの実験結果は抑制制御能力に関するゴー・ノーゴー検査の結果とも相関が見られない。またADHDのグループに同じ実験を行なったところ、彼らは抑制制御能力が低いにも関わらず、文全体の意味統合に失敗する割合が特に増えるわけではない。実行機能検査を取り込んだバーゲス、シャリスらの新しい文章完成法検査についても議論されることになろう。
 中枢性統合の弱さはASD者の言語的統合の特性に関する仮説となりうる。断片化されて羅列的な語りをすることがASD者の特徴として予想され、またこれは言葉の細部に集中して理解する特徴でもある。ASD者の語りが特異であることは多くの研究で示されており、彼らの日常言語において見られるコミュニケーションの困難も明らかに中枢的統合の弱さと関連がある。
 情報は多くのレベルで統合されるものなので、統合が弱いということは文脈や意味以外のレベルでも言語能力に影響を及ぼすことが考えられる。私とブースは独立した非語の中の特定の音素を識別する能力について検査を行なった。結果は定型発達のグループでは特定音素が非語中の語頭にある場合に比べて語中や語尾にある場合には識別が遅くなるのに対し、ASDグループではどの位置にあろうが音素を取り出すのに困難が少なかった。音韻学的レベルでの中枢性統合については今後の研究が待たれるところである。デイヴィス、ヒートンと私はあるASDの個人が音符だけでなく環境音や話し言葉に対しても絶対音感を持っていることを紹介している。この人は話者によって異なる言葉の音調の細部に注意力が集中してしまうために語の意味を認識できず、そのことが発達上話すのが大きく遅れていることと関係しているだろうと私たちは推測している。
 
4. 将来の研究に向けて
 ASD者の言語コミュニケーションの特異性については多くの問いが残されており、研究の宝庫でもある。わけても彼らの意味論的特異性については研究が望まれる。心の理論が欠けているないしは遅れていること、そして中枢性統合が弱いことは、個々のASD者においてその意味論的な認知構造にどう関わっているのだろうか。「関連性理論」を採用すべきだろうか? どうしてASDを持つ人の中である者はそもそも言語を習得できないのか、そしてなぜある者は一度は言語を習得し、その後言葉を失ってしまうのか。何故ASDでは受容言語が表出言語より遅れるのか。どうしてASDの子供は特異な韻律で喋り、またカナーやアスペルガーが報告したような「小さな教授」のように喋るのか。そして最後に、もし心の理論が言葉の習得にとって重要だとするならば、どうして遅滞なく喋り始めるASDの子供がおり、時には並外れた能力を示す者がいるのか。今後の研究がこれらの問いに取り組むことになるだろう。
 
 彼女の講演はざっとこんな内容だったかと思います。


 シンポジウムの後、特に私の関心であったASDの人の外国語習得について個人的に彼女に質問に行きました。彼女が言うには、その分野についてはまだほとんど研究らしい研究がない、ただ自分の経験では、ASDの人は外国語に優れた能力を発揮する人と、いくら努力してもまったく駄目な人と両極端に分かれる傾向があるようだ、という話でした。いくら努力しても外国語がまったく聞き取れない、読解はまあまあできても口頭コミュニケーションがほとんどできないというASD当事者の話を聞いていますから、講演を読み直すといろいろと思い浮かぶことがたくさんあります。またその人は小学生の頃から教師にも「偉そうに喋る」と言われていたことや、地元の方言をまったく喋っていなかったこと、友達もいないから一人で本や雑誌を読んで過ごしていたこと、普通の小学生なら興味を持たないであろう国会中継などを見ていたことなどを話していました。彼の自己分析によると「自分は日本語を人とのコミュニケーションの中で母語として習得したのではなく、外国語のように学んだのではないか」ということです。ASDの子供によく見られる、文法的には間違っていないけれど特異な喋り方をするという現象との関連も気になります。いろいろと勉強になりました。
 一方、聴覚情報処理障害についての近年の研究では、この障害の背景要因として発達障害や複数言語環境下に置かれた子供のダブルリミテッド状況に注意が促されています。発達障害の場合で言えば、実は言葉を聞き取れていなくても(当事者なりの処世術として)分かったふりをすることがよくあって、周囲からは気付かれないまま成人になってしまいます。発達障害でなくとも複数言語環境下の子供でもそういうことが起こりうるでしょう。また聴覚情報処理障害は発達障害を持った成人の言語習得、特に聴解の困難ともつながってくるかもしれません。(参照:小渕千絵「聴覚情報処理障害(auditory processing disorders, APD)の評価と支援」,『音声言語医学』56-4)
 性別には偏りがあるようですが、人種には関係なく世界中にASDの人は一定数います。ということは日本で日本語を学ぶ外国人の中にも、必ず一定の割合でいるはずです。言語の習得について外国人が抱える困難要因には家族、学校、職場の条件、地域の特性などいろいろあるでしょう。でもそれに加えて持って生まれた発達障害のために、通常の言語教育のやり方ではうまくいかないケースもあるのではないでしょうか。これは私たち言葉の教師にとって、考えておかねばならない重要な問題だろうと思います。
 
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