真嶋潤子の最近の活動


(2015年9月28日)   ←戻る
 
ベトナム滞在記
 
 ベトナムのホーチミン市で行われた初の「日本語教育国際シンポジウム」に参加するために4泊5日の滞在をした。今回のシンポジウムは、主催者であるホーチミン市師範大学日本語学部を中心として、ベトナムはもちろん東南アジア8カ国の日本語教育のリーダーたちが一堂に会し、日本語教育のこれからの発展のために、様々な角度から情報を提供あるいは共有し、今後の課題を確認していくネットワーク作りができたのではないかと考えている。
 私は今回2つの発信を行った。一つは、シンポジウムの前日に設定されたプレ講演会で、「CEFRとその応用 –大阪大学外国語学部の経験から−」というテーマで、ベトナム各地で日本語を教えている先生方を中心に数十名(百名近かったかもしれない)の方々に、本学外国語学部の25専攻語で共通の枠組みをもって「到達度評価制度」を作ってきた経緯と、その際参考にした「ヨーロッパ言語共通参照枠(CEFR)」の概略をお話した。ホーチミン市師範大学日本語学部では、ちょうど今年からカリキュラム改革を行うことになっているので、参考になる話だったと言われたのは幸いだった。日本からの参加者の中にも、かつての本学と同様の悩みをもっておられるという方がおられ、講演後にも個別に話をさせてもらった。
 もう一つの発信は、口頭発表第4会場での研究発表である。こちらはプレ講演会とは異なるテーマで、私が代表を務める科研費の研究成果の一部を発表した。テーマは「文化的・言語的に多様な子どもたち(CLD児)が複数言語で識字力を獲得するための要因 –大阪の小学校における事例研究より−」であった。ここでは、公立小学校で1、3、5年時に日本語と母語(中国語)の会話力・語彙力・読書力を調査した縦断的調査対象者の中から、日本生まれで中国語の識字教育は受けていないにもかかわらず、2言語での識字力を「自然習得」で身につけた2名のケースを報告した。20名定員の小さい会場だったが、満席に近かった。
 
 滞在期間中に見聞きしたベトナムの街や人々の様子からは、国が発展しているまさに途上であることや、「社会を良くしよう」とする熱いエネルギーを感じた。
 ホーチミン市の住人の平均年齢は28−29歳だと聞いて、驚きもしたが納得もした。20代、30代の若い力が社会にみなぎっている。訪問したホーチミン市師範大学の日本語学部長は30代半ばのキーパーソン、大学の学長は50代前半かと思われる穏やかで包容力のありそうな男性(名刺にはAssoc. Prof.准教授の肩書。博士号を持っていないので、フルプロフェッサーではないということか。タイでも見た光景)、副学部長は多分40代の知的でバランス感覚のよさそうな女性(博士号取得者)であった。若い優秀な人材が、社会を動かす決定権を担っていると感じた。みな自分の頭で考えているという印象だ。それはシンポジウム会場の移動をエスコートしてくれたボランティアの学部学生の動きを見ても感じたことだ。しっかりした女性が、物事の決定に関わり、社会を動かしていると感じた。日本の年功序列社会でぬるま湯でふやけた私(たち)とは、人生経験が違う。
 上意下達で整然とマニュアル化された日本社会と比べると、「細部の詰めが甘い」とか「行き届いていない」という見方もできるかもしれない。しかし、現場を任された個人が、自分の頭でベストだと思われるアクションを起こし、判断に迷うときは、携帯電話で上の人の指示を仰ぐという形が取られていた。そして、起こしたアクションについては、随時報告を行うということになっているようだった。
 街のインフラ整備も急ピッチで進んでいるところだなと感じた。あらゆることを一度に発展させようとすると、無理をしたり追いつかない部分が出たりすることは否めない。ベトナムの路上で最初に驚くのは、バイクの多さと交通規則の不徹底によるカオスにも見える道路状況だろう。信号のない交通量の多い交差点や、信号を無視する車、バイク、それに道路のどこでも渡ろうとする自転車や歩行者。ベトナム初心者の外国人にとっては、ペースを掴むまで非常に怖かった。しかし原則が「事故を起こさないこと」「相手のペースに合わせていつでも止まれるスピードで動くこと」「スピードや進行方向を急に変えないこと」だということを理解して、現地人について横断する機会が増えるにつれ、慣れることができた。ホーチミンの道路状況というのは、Tシャツに描かれるぐらい「観光の目玉」の一つとも言えるほどのこの街の特徴(売り!?)になっている。(同行した連れ合いが、そういうTシャツを購入した。)しかし、今後交通政策が進むにつれ、また現在工事中の地下鉄(日本が入っている)が完成し、公共交通が整備されるにつれ、きっとそのうちに解消されるだろう。私の限られた経験では、イタリアのナポリや、インドのニューデリー、マレーシアのKL、中国でも似たような光景はあったが、ベトナムはバイクの利用者が飛び抜けて多いようだ。もっともその割には、バイクのシェアをほとんど占めている日本製のバイクの性能が良いからか、排気ガスがさほど(というのは、他の国の大都市などと比較して)深刻には感じられなかった。バイクの二人乗り、三人乗りはざらで、子ども二人を挟んだ両親とみられる四人家族でのバイク乗車、その上さらに荷物も持っている家族の姿も、何度も目にした。これはすごい!
 スーパーに行けば、大小さまざまでカラフルなマスクが売られていて、ホーチミン市民はこういうマスクをして路上に出ているのだなとわかった。
 道路状況で言えば、歩道の整備が必要だとか、道路の補修も必要だと感じるところがあったが、それらは社会全体から見れば、中心的課題ではもちろんない。「バリアフリー」からは程遠い道路状況・建物状況だが、路上に出ているのは元気な人たちである。
 スーパーに行って、日本人の多さに驚く。みんな日本語を話している。レジの店員も、おつりを日本語で数えて渡してくれる。観光地であるホーチミン市だからこそのこの様子なのかもしれない。
 
 私は今回の国際シンポジウムは、最初は行かないつもりだった。しかし、8月に大会のキーパーソン(実行委員長)であり、私が博士後期課程の副指導教員も務める指導学生のCさんと話をして、いろいろ相談される中で、参加を決めた。しかも、国際シンポジウムの前日の「プレ講演会」での講演と、国際シンポジウムの口頭発表と、同じ部屋の司会まで頼まれた。Cさん曰く、ベトナムの日本語教育関係者は、経験がないので、日本からの参加者から多くを学んで欲しいとのこと。まあ、この人やベトナムの人々のためなら、協力してあげましょう、と思わせるものが、確かに彼女にはある。それはホーチミン市の会場で出会った多くの日本人が異口同音に言っていたことでもある。Cさんに私利私欲がなく、ベトナムの日本語教育を良くしていかないとだめなんだ、という強く熱い思いをみんなが感じるからだろう。
 色々問題はあっても、できなかったこと、うまくいかなかったことを言うよりも、うまくいったことを認め合い、評価しあって楽しい気分になるという大会だったと思う。私も参加してよかったと思ったし、何度もいろんな人にそう伝えた。
 現地で真剣に誠実に国際シンポジウムの成功に向けて頑張っているスタッフを目の当たりにして、自分に与えられたことを与えられた居場所で全うしてあげよう、この会を盛り立てるためにできる協力をしようという気になった。「来てくださっただけで嬉しいです」と言ってくれたスタッフを始め、みんな(教員10名と学生数十名)は午前6時には集合して会場の準備をし、8時からシンポジウムが開催できるよう万全を記していたようだ。人が最善を尽くしているというのがわかる時、自分は批判しようという気にならないものだなとわかった。日替わりで美しいアオザイを来ていたCさんはじめ、くるくると良く動くスタッフたちの誰もが、3日間とてもおしゃれをして素敵な格好をしていたのも、とてもよかった。今思うと「(私の・私たちの・この街の。。。)良いところを見て欲しい」という自信にあふれた姿だった。また「ホーチミン市に来てよかった。この会に参加できてよかった」と言ってあげられることが最大の賛辞だと思ったので、そう言えるように自分自身も滞在を十分楽しもうと、熱心に参加したつもりである。
 今回連れ合いが同行したのは、荷物を持ってもらうことと身の安全確保の意味で、とても安心できた。最初の夜に街中を歩いたが、私一人なら出ないところだ。街中で大勢の人が集まっていたのは、大きな月餅の専門店だった。数十人の客が、みんな歩道にバイクを止めて、たくさん月餅を買っている。私たちも、折角なので購入することにした。こちらの英語は何とか理解する店員さんがいたが、返事はベトナム語しかなかった。でも無事に購入。立派な箱に入れてくれた。「箱代も込みでこの値段です」と言われたのかどうかはわからないが、電卓で示された金額を支払って店を後にした。ものすごい熱気であった。
 帰国後、中秋の名月にその月餅を食べてみたが、ココナッツがたくさん入った餡の中に黄身餡が入っている、ベトナムらしい月餅だった。少なくとも中国では見ることのなかった中身であり、大きなサイズである。その店の奥で作っているのかもしれない。美味しかった。購入する時に、どれが良いかわからないし、ベトナム語で書かれた表示が読めないので、「人気のあるのを薦めてほしい」と言ったのだが、通じたのかどうかわからなかった。でも、今になって食べてみて、多分通じていたのだなと思う。ベトナムらしい月餅を薦めてくれたのではないかと思う。いやきっとそうだったんだろう。
 
 最終日に「戦争証跡博物館」を訪れた。ベトナム戦争で、アメリカは何をしたのか。戦後もいまだに続く「枯れ葉剤」の後遺症と3代になっても続く奇形児の出産が、そのいたいけな子どもたちや被害にあった人々の写真で、何より雄弁に人間の愚かさを物語っている。事前に(シンポジウムでご一緒したシンガポールからの先生に「あの博物館はショッキングだけど、必見です!」と強く言われていて)内容について聞いていたので、心の準備はある程度できていた。しかし生々しい写真やホルマリン漬けの嬰児の展示は厳しかった。アメリカ人兵士にも多くの被害を出したようだが、人間が人間に対して行う所業ではない、と本当に怒りが湧いてきた。
 Agent Orangeと呼ばれた「枯れ葉剤:ダイオキシン」が、ベトナムの各地に米軍によって大量に投下されたわけだが、微量でも人の命にかかわる猛毒が、「トン」の単位で投下されたのだ。この汚染されたベトナムの大地は、今はもう大丈夫なのだろうか。水はペットボトル。新鮮野菜が必ずレストランで供されたが、どこの野菜なのだろう。
 この博物館を見学し、心を痛めたばかりの枯れ葉剤の投下について、当時米軍は沖縄から出撃していていたそうである。そして、その枯れ葉剤のドラム缶が何百本も那覇市の地中から見つかったそうである。日米地位協定に守られた米軍は、何の責任も取らず、日本側に情報も提供せず、知らんぷりだそうである。ベトナムと沖縄は続いており、米国の責任を追及できない日本政府は、結局その処理のために私たちの税金を投入するのだろう。
 博物館では、従軍カメラマンという仕事をした大勢の人々のおかげで、現在も私たちは戦場の悲惨さを目の当たりにすることができる。多くの命の代償で得られた写真であり記録である。心して見ないといけないと思った。しかし、できるならもうこういうものは見たくない。見ないで済む世界にならないものか。
 博物館の屋外にあった、捕虜収容所(刑務所)の様子を再現した建物は、マネキンもリアルで恐怖を感じさせるのに十分であった。そばにいたロシア人と思しき若い女性が、ふと中を覗いて本当の囚人がいると思って、ビクっとして後ずさりし、恐怖に引きつった顔で「ああびっくりした。本物かと思った。怖かった!」と何度も言っていたようだが、私も同じ恐ろしさを共有した。私はロシア語は解さないが、彼女の言葉の意味はよくわかった。