2016年8月26日から9月5日までタイのバンコクに行ってきました。今回の訪問では3つの大きな柱がありました。順を追って報告します。
1「バイリンガル教室」の見学 保護者会(共有会)
これは1997年に日本人の親が作ったグループで、バンコクで子育て中の日本人の子どもや日泰国際結婚の両親を持つ子どもが通っており、タイ国日本人会の場所を借りて週一回土曜日に授業をやっています。3歳から13歳までの子が通っており、現在の在籍は25人だそうです。ボランティアベースで運営されており、日本語教育の専門家も少なく、親が先生にもなったりと手作りの教室です。それだけに分からないことだらけでやるべきこともたくさんあるという話ですが、まずはこういう日本語という共通の括りを軸にした情報と体験の共有の場があること自体に大きな意味があると考えられます。
私が訪問した日はちょうど夏祭りで授業はありませんでしたが、17人が参加していて、保護者の皆さんとも話せたのはよかったです。保護者会(交流会)に参加せていただいて、これまでの活動内容の報告を聞かせていただきました。幼児部と低学年、中学年、高学年に分かれており、幼児部では本の読み聞かせ、言葉を使っての工作などを行い、低学年では運動系と言って体の部位や動きと測定など身体にまつわる言葉を扱い、また行事などを取り上げて言葉と文字をつなげる工夫をしているという報告を聞きました。中学年になると「マイアルバム」作りに取り組みます。自分のプロフィールを表す写真を集めてアルバムを作ります。自分宛の手紙を親に書いてもらって、それをアルバム作りに生かすこともやっているそうです。高学年は現在2人だけですが、町と私というテーマで地図を読む、実際に町を歩いて通りにあるものを知る、町にある言葉を探す、また日泰の町の違いについても考えさせるなど、内容はかなり高度です。日本の情報も意識しながら、現地バンコクの街や社会への理解が深まっている様子が、とても素敵だと思いました。
ここでは「年齢相応の日本語能力」は目指さないことを方針としています。子供の社会階層も日本語能力もバラバラであることを考えれば極めて妥当だと思います。さらにいいと感じたのは、「日本語だけを使いなさい」などと子供にも日本語を強制はしないことです。もし日本語で分からないことがあれば、タイ語で聞いたり説明したりできる、この柔軟性は非常に大切なことだと思います。だからタイ人の保護者が気軽に来てみることもできるわけです。どの言語が得意か子供によって違う以上、日本語だけを強制して子供を鋳型にはめてしまうと、ストレスが溜まったり学習が嫌になる子も出てくるでしょう。そうなれば元も子もありません。日本語が不得手な親とのコミュニケーションも大切な問題です。
ここでは高学年同士、また先生同士のLINEグループもあるようですが、これについては突っ込んだ話を聞かずに終わってしまいました。
( タイにおける母語・継承語としての日本語教育研究会)
国際バカロレアを目指す進学校で、タイでも最上位にランクされる学校です。欧米系の子供も多く通っています。ここのYear 7 (小学校5・6年) とYear 9 (中3) を見学させていただきました。
小学生では将来の自分にインタビューするという想定で、職業について語ったインタビュー記事を作るという作業をやっていました。それをパワーポイントを使って発表するというものです。高学年では安部公房の小説『赤い繭』を読み、話の前後を想像して、それを映像を使って発表する授業でした。さすがにいずれもレベルは高いです。いわゆるアクティブ・ラーニング方式をとっており、先生は調整と補助の役回りです。そういうわけで一斉に均一の日本語能力を測ったりもしません。
子供達は親の移動にともなって各国を移動した経験を持っており、また日本語能力もまちまちです。日本語を学んでいるのは18人で、週4回の授業です。他の授業はおおよそ英語で行われています。私が見学したのはクラスの人数が7人という恵まれた環境です。授業も特に高学年の場合は国際バカロレアの試験も意識したものになっているようでした。ただ日本円にして月10万という高額な授業料を払える親はごく少数しかいないわけで、社会階層という面からは当然偏りがあります。文字通りのエリート校でした。
3 泰日ダブルの学生の生の声を聞く会にコメンテーターとして参加
大学を出てすぐの人3人に話を聞きました。
1) タイ生まれで小学校1・2を日本で過ごす。小3から中3までタイの日本人学校に通い、高校はタイで、大学もタイの大学の日本語学科を卒業。タイ語の読み書きが苦手で授業について行けず、苦労した経験を持つ。
2) 9歳まで日本で暮らし、その後はずっとタイ。理科系だったが日本語の語彙を忘れている自分に不安で、日本に対する中途半端な違和感を解決しようと思って日本語を学ぶ。日本の漫画を取り寄せてネットも使って勉強していたが、さらに本格的に国立大学の日本語学科で勉強した。今は日系企業でタイ人と日本人の従業員間のコミュニケーションギャップの調整に携わる。子供の頃の日本の思い出は楽しかったが、日本に戻ろうとは思わない。
3) 周囲が勧めるので理系を勉強していたが、数学が苦手だったので、泰日ダブルであるという自分の利点を生かして日本語をやろうと思った。(タイでは理系の方が優れているという社会通念があるそうです。) 2013年にバンコクで大洪水があった時、大学も休みになったので、自室に篭って村上春樹の作品を読み、それで卒論を書いた。日本語能力試験1級を取得。
彼らの話を聞くと、移動する子供は親の都合で環境が変わり、特に言語面では適応に苦労するということを具体例で再確認させられました。でも、置かれた環境に適応しようとして、努力を重ね、あるいは方向を模索して情報収集する中で、時間はかかっても複数言語話者として、シッカリした考えを持って社会で活躍できる道を見出そうとしている逞しさには、感心しました。
このような、日本人の大人が大勢集まるところに来て、経験談をするという機会に来るだけでもかなりのプレッシャーだと想像しますが、司会進行の巧さもあり、それぞれに「聞かせる」部分があって、感心しながら伺いました。日本あるいはタイの既成の学校制度には、もちろんぴったり当てはまらない子どもたちであったわけですが、「はみ出した部分」を自分のものとして人間的成長に生かしている逞しさを感じました。親の思い通りにも、どこかの教員の指導通りにもなっていないようでしたが、それが個性になっているのだろうなと、頼もしく思いました。
滞在中、一日カーンチャナブリー方面への観光ツアーに参加しました。ただ他人が企画したお仕着せのツアーに乗っかって行ったので、洞窟寺院、象乗り、筏下りを楽しんだのはタイらしかったのですが、泰緬鉄道の歴史に関する話はほとんど聞けずじまいです。映画『戦場にかける橋』の舞台になった橋に連れて行ってもらったのに、橋の写真を撮った他は駐車場と土産物屋だけでした。鉄道にも30分乗りましたが、戦争博物館に行けなかったのは残念!
車窓より
タピオカの畑
今回のタイ訪問で思ったこと
日本で育つ泰日カップルの子供に接したら、今回出会った彼らの様子を思い出すでしょうか。私たちは親の母語を継承したバイリンガル教育の必要性を強く訴えていますが、現実には乗り越えねばならない様々な困難があります。タイで日本語とのバイリンガルになるのは社会的地位が高い人です。それはタイでの日本語の価値が高いからです。しかし日本ではタイ語は等閑視されがちで、その結果タイルーツの子供は日本語モノリンガルになってしまう事例が圧倒的に多いわけです。国際結婚では男性が日本人で女性がタイ人という場合が多く、日本に来ると女性は子供の言語についての決定権を奪われてしまうというジェンダーバイアスが絡んだ事情も大きな原因かもしれません。
フィリピン人の親が不法滞在で日本を強制退去になったものの、日本語しかできない子供は特別措置で在留資格が認められた事例がありましたが、これは裏返せば日本語しかできない子供だけ日本にいていいという政策です。ではもしその子がフィリピン語を話せたら? おそらくは強制送還になってしまったことでしょう。ところで子供をあえて日本語だけで育てて日本に残れるようにと考える親もいるそうです。自分が置かれた条件を利用しようという弱者なりの戦略としたたかさではあるのですが、これは親子間で母語継承が犠牲になることを意味します。そういう戦略を取らせてしまう環境をこそ問題にすべきでしょう。放っておくと本人もダブルリミテッドの状況に陥ってとても辛い思いをする可能性があります。
自分の意思とは関係なしに国境を越えて「移動する子供」は確実に増えています。そうした子供の言語環境に影響を及ぼす要因は本当に様々かつ個別的で、なかなかパターン化しづらいものがあります。それでもこの現象が増えていく一方である以上、蓋をするわけにはいきません。言語的多様性は意思疎通の困難さでもあり、コストもかかります。ただ現代はもう異言語の人同士が隣人であり、家族であるのがごく普通になってきている社会です。たとえ支配的言語(日本の場合は日本語)で同化しようとしても、ついて行けない人が大勢でてくることは私たちの調査でも明らかです。万能薬のような処方箋はすぐには見つかりませんが、見ないふりを続けていけば、孤立、疎外感、分断、嫌悪、果ては暴力といった社会的問題につながりかねません。今の時代に完全鎖国で国際結婚も禁止といった馬鹿げた政策を取ることが可能だとは誰も思わないでしょう。