真嶋潤子の最近の活動

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CAJLE 2018 基調講演 概要    真嶋潤子 
「国際化」と言う言葉はすでに使われず、「グローバル化」という言葉さえ陳腐に聞こえるほど、国境を超えて移動する人々は増加の一途を辿っているようだ。日本も例外ではなく、国内の在留外国人数は240万人を越え(2017)、留学生数が27万人である(「留学生30万人計画」は2020年に達成見込み)だけでなく、日本語能力の限定的な「技能実習生」が留学生と同数の27万人も日本で働き、政府はもっと増加させる方針であるということはあまり一般に認識されていない。日本はこれまでに経験したことのない外国人との共生社会をせざるを得ないが、政府は「移民政策」は取らないと言い続けている。
欧州評議会ではCEFR2001)を発表した際に「複言語・複文化主義」を唱え、「生涯学習」と「自律的学習(者)」も重要なキーワードとした。目標言語の母語話者のようになることを必ずしも目標にしない姿勢も重要であった。CEFRは日本でもNHK語学講座で参照され、文科省の英語教育に関する報告書(2018)にも引用され説明されるほどに徐々にではあるが受け入れられてきた。(詳細は翌日の「CAJLE 教師研修会」に譲る。)
学習者の持つ「言語資源」をレパートリーとして認め(目標言語以外の言語を禁止するのでなく)、教育に活用しようとする「トランスランゲージング」(Garcia et al. 2013)や、多言語多文化な人々が織り成すカラフルな「言語」を文化人類学的に観察して「言語」の捉え方に再考を促す「メトロリンガリズム」(Pennycook & Otsuji  2015, 尾辻 2016)の言語実践の捉え方は、言語教育・言語学習にも示唆に富む世界潮流を示していると考えられる。
日本語教師は目の前の学習者や授業のことにとらわれがちかもしれないが、日本語の教室や「評価」と、社会の変化や世界的な動向は無関係だと言えるだろうか。例えば「漢字テスト」をするのは、何のためだろう。学習者の知識量を計っているのか、正確に記憶しているかどうかを調べているのか。それは何のためだろう。漢字のトメやハネ、書き順はどこまで厳しく採点すべきなのか。それは誰のためなのか。この半世紀余りで、言語教育観が「教師中心」から「学習者中心主義」へ、学習者の心理に配慮する教授法へ、「知識量」を問うのでなく「その言語で何ができるのか」と言う行動中心主義の考え方へ、また学習者を「空のバケツに教師から知識をもらう人」ではなく「社会的行為者としての学習者」「言語使用者としての学習者」「自律的学習者」へとその捉え方も変化してきた。
海外の日本語学習者の動機も変化していると言われる中、従来型(20世紀型)の「あまり移動しない学習者」への日本語教育とはどこが異なるのか、立ち止まって考えてみてはどうだろう。
日本語教育で利用されてきた言語能力を把握するための「共通枠組み」として、例えばACTFL-OPICEFR (2001)JFスタンダード(国際交流基金)、National Standards (米国)、日本語能力試験(JLPT)新試験(2010)、そしてCEFR-Companion Volume (CEFR-CV 2018)が挙げられる。人の移動を前提として作られ、改善され続けているCEFRの増補版(2018)をヒントにしながら、我々は目の前の学習者の何を、何のために誰のためにどのように評価してきたのか、していくのか、考えるきっかけを提供することを目的とした。日本語教育に関わる我々には、ミクロの視点だけでなく、世界の動きを見据えるマクロの視点も大切であることを述べた。
 
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