『忘れ得ぬ女性』       真嶋潤子

 ちょっと想像してみていただきたい。
もし自分が、母国で社会的マイノリティー(少数民族)であったら。そして、自分の母語を公の場で使うことを禁じられたら。自分の母語で教育がなされる小学校が廃校にされ、小学校にも通えなかったら。

私は2001年にドイツに滞在する機会を得て、忘れられない女性に出会った。大学の外国人向けドイツ語コースに少しがっかりして、市民大学Volkshochschuleと呼ばれる公民館のようなところのドイツ語コースに通っていた時だ。
授業中に教室のドアをノックして恥ずかしそうに入って来た女性は、服装からイスラム教徒のようだった。地味な上着と長いスカート、頭にはこれも地味な色のスカーフ。スカートの陰には目の大きな小さい男の子がいた。彼女の地味な身なりを見て、クラスの口さがない東欧出身の若い女性達は「おばあさんと孫みたい」などとささやきあう。しかし、私には彫の深い顔だちの彼女のつややかな肌を見て、30台にもなっていないのではないかと思えた。トルコの人かな。クラスには既に一人、最近トルコから移民した女性が来ていた。
次第に分かってきたことは、私には驚きの連続だった。彼女は名前をベヒア(仮名)と言う。トルコから来たがトルコ人ではない。クルド人である。ドイツに来て10年にもなり、7人の子供がいるが、出産・育児に追われてドイツ語を勉強するひまがなかった。一家9人の中で、彼女だけがドイツ語ができないために「ドイツのパスポートがもらえない。これが大きい大きい問題!」と繰り返す。移民局で「ドイツ語を勉強してから出直して来なさい」と言われたと言う。10年間一度も帰っていない故郷に、子供を連れて帰りたいが、ドイツのパスポートがなければクルド難民の彼女はトルコの刑務所行きだと言う。「お縄ちょうだい」のジェスチャーは万国共通のようだった。
新入生を迎えて少し緊張した雰囲気で授業が始まって、いきなり皆が驚かされた。先生がクラス全体に向かって質問をした時だ。挙手をしてから話すか、先生に指名されてから話すというなんでもない教室でのルールが、最初ベヒアには理解できなかったようだ。先生の質問に一人勝手にべらべらしゃべり出す。しかも話がずれて、自分の境遇の話になる。周りの学生が黙っていなかった。特にトルコ人の女性が、何かトルコ語で注意したようだ。そのトルコ人の学生が、自分の持てる限りの表現力で、「だからクルド人はだめなんだ」ということを我々他のクラスメートに伝えようとしていることが大変よく伝わって、私は悲しくなった。
さらに皆が驚くことがすぐに明らかになった。ベヒアは教科書や文房具を持っていないだけでなく、文字が読めないのだ。「小学校に行けなかったから」と説明してくれた。隣に座った私が教科書を見せてあげようとしたら、「感謝するが、それには及ばない」ということをドイツ語でなく体全体で知らせてきた。それでも、絵の部分は見た方がわかりやすいと確信していた(言語教育学専攻の)私は、彼女のお世話係のような役をやることにした。私は、彼女の境遇に胸が締め付けられただけではない。非識字の人がどのように外国語を学んでいくのか、間近で観察したいという言語教育を生業にする自分の欲求が頭をもたげたのである。しかし、この点については、結論から言うと最後まで大きな成果はなかった。ベヒアのクルド語やトルコ語混じりらしいドイツ語は、なかなか上達せず、彼女の習得過程を確認するには、コースの期間が短すぎた。ただ、新情報は既知情報に関連づけて覚えようとするし、何度も口で繰り返して覚えようとしていた。もっとも、自分が興味を持てないか、とっかかりがつかめない内容については、すぐにやり過ごそうとする。
ドイツ語のコースが2週間休みになったとき、私はおせっかいにもベヒアに文字の読み書きを教えてあげようと思いついた。ドイツで日本人がクルド人にドイツ語の読み書きを教えるなんて、なかなかできない経験だ、と自分の思いつきにうっとりして、大きい書店へ行って使いやすそうな教材まで買い教案まで作って、その月曜日の11時になる20分近く前から約束の市民大学のロビーに行って準備していた。
ベヒアは来なかった。
次に出会った時、彼女は「用事ができて行けなかったが、電話の使い方がわからないので連絡できなかった」というようなことを言った、と私は理解した。私は「残念だったね」と言った。彼女は悲しそうに微笑んだ。
ベヒアは数字もよくわからないようだった。3桁のページ数を言われると、教科書を開けることもできなかった。9人家族の食事の支度だけでも大変な彼女は、どうやって買い物をしているのだろう。クラスメートが、スーパーでワゴンに山盛り食料品を買っている彼女に会ったと言っていたので、一人で買い物はこなしているようだった。しかし、おつりをごまかされたりしているんじゃないかと、私は心配だった。
また、子供に与えるスナック菓子の原材料などにしても、表記が読めない彼女は、そうと知らずに宗教的に禁じられているような食べ物を食べさせているかもしれないのだ。ある時、教室に連れて来た彼女の小さい息子が食べているお菓子を見ていて、私はふと不安になった。彼女の暮らすところに、ドイツの日常生活に必要な支援をしてくれる人が、できれば彼女の文化を理解する同郷の人で、いることを祈った。
あれから1年になる。ベヒアと私は連絡しあう手段を持たない。文字の読み書きができず、電話のかけ方を知らなければ、直接彼女の家まで出かけて行って話す以外にコミュニケーションの手段がないことに思い至り、その時ドイツを去ろうとしていた私は暗い気分になっていた。
私の心にベヒアは衝撃を与え、忘れ得ぬ人になった。しかし、彼女は「日本人」も「日本」も知らないようだった。世界地図を見せても、その見方は多分わからなかったのだと思う。私の名前は覚えてくれているだろうか。それ以外に彼女が私について理解したことはないのかもしれないから。

今年になって『チョムスキー 9.11 Power and Terror』という映画を見たが、その中でチョムスキーは「クリントン政権は、トルコ政府が国内のクルド人を残虐なやり方で攻撃しようとする時に、最大の軍事援助をしたのである。だからその感謝の意味で、アメリカがアフガニスタンを攻撃する時にトルコはまっ先に支援を申し出たのだ」と言っていた。クリントンの援助で、多くの「ベヒア」が生まれたことだろう。
ベヒアは、ドイツのパスポートを手にして故郷に帰ることができただろうか。クラスで最後に撮った写真にベヒアも写っている。みんな特大のスマイルをしている中で、彼女だけは悲しそうな目をしている。