日本語初級教科書の分析試案
---「ちょっと」の意味・用法から---
真嶋 潤子・濱田 朱美

1.はじめに
 現在市販されている3000点にものぼるという日本語教材の中でも、とりわけ初級学習者用教科書は需要も出版数も多い。(凡人社編集部 1999)最近の教科書の作成目的をみると、いわゆる「コミュニカティブ・アプローチ」の影響を受けていて、「実際のコミュニケーション能力を伸ばす」ことや「使える日本語」を学ぶことを目標とする傾向がある。80年代以降、学習者が多様化し、また多数の教材が出版されるに従って効率的に日本語を教えるために教材分析が必要となってきたが、岡崎(1989)が述べるように、その目的は第一に、教科書が学習者のニーズに適しているか、また教師が学習者にとって必要と考えるものに見合っているかを調べること。第二に、その結果から教科書で満たされない部分を補うべき副教材等を準備することにあった。(pp.44‐57)
 本稿では、そのような具体的な学習者を想定した教科書分析とは異なり、現在重要と思しき初級日本語教科書を見渡して、以下の視点で教科書分析を行ないたい。
1)「具体的な学習者のニーズに適しているか」という観点は個別の教育現場でのコース・デザイン、カリキュラム・デザインにおいては極めて重要であるが、個々の学習者に密着した分析とは別に、教科書作成に当たっての「言語教育観と教科書の内容が合致しているか」ということに着目したい。具体的には「コミュニケーション能力養成を重視した教科書」を謳っている教科書がそのための目配りを行なっている状況を調べる。
2)その方法として、日常的に日本語母語話者が多用する語彙・表現に注目し、その扱われ方を複数の教科書について分析し、特徴を踏まえて問題点を探る。
 つまり本稿では、コミュニケーション能力の養成を目指す教科書であるかを考察する一つの視点として、話し言葉で日常、頻繁に用いるある語彙を選択し、複数の教科書についてその語彙がどのように扱われているかを分析し、その特徴や問題点を明らかにする試みとしたい。
 その際まず問題となるのは、どの語彙を分析の対象または教材の切り口にするかである。日本語母語話者には日頃頻繁に使用する何でもなさそうな語が、日本語学習者を手こずらせることはまれではない。コンテクストによりさまざまな用法がある言葉で、本稿で着目した語は「ちょっと」である。通常、自分がどのような意味で用いているか問うことなく、何気なく口にすることが多い。この何気ない言葉が日本語を外国語として学習する人々にいかに厄介な言葉であるかは、彭(1994:27-35)に詳しい。同書によると、次のような用例があってわかりにくいということである。彭(トル)より例文とそこに付された説明を引用する。
1)「ちょっとない」(「○○ありますか」に対し、否定を和らげる)
2)「こんな機会はちょっとないから、頑張ってください」(強調)
3)「あの人はちょっと...」(マイナス価値評価)
4)「ちょっとお先に」(詫びの気持ち)
5)「ちょっと一ヶ月ヨーロッパに行ってきた」(話し手の行為を誇張しない効果)
6)「ちょっとお茶でもいかがですか」(勧誘を和らげる)
7)「お値段もちょっとしたものだ」(「普通以上」「相当」の意味)
8)「ちょっと、冗談じゃない!」(相手の言ったことを否定しつつ、さらに注意を喚起する)
 「ちょっと」が話し言葉でよく使用されること、そして多くの意味・用法があり、それぞれの意味がコンテクストに非常に依存していることから、日常のコミュニケーションにおいて極めて重要な語の一つであるという認識のもとこの語彙を分析の対象に選んだ。しかし、この「ちょっと」という語は実際日本語学習者にとって理解・使用が彭が言う程に困難なものなのだろうか。その重要性・難しさを確認するため、予備調査として日本語学習者として上級の学部留学生を対象に、「ちょっと」の意味用法を全て理解し、使用できるかどうかを、アンケートにより調査した。

2. 「ちょっと」の意味・用法とその分類
 調査の内容を報告する前に、「ちょっと」の意味・用法と分類について確認しておきたい。本稿では「ちょっと」の意味・用法を、外国語として日本語を学ぶ学習者も対象にしていること、文型だけではなく用いられる場面や文脈を考慮に入れてあるという点から『日本語文型辞典』(くろしお出版)を参考にして整理しておく。
 まず、「ちょっと」が用いられる形を文型別に整理すると
1.「ちょっと」のみ
2.「ちょっと〜ない」
3.「ちょっとした〜」
の三つの形がみられる。また、意味・用法という観点から分類すると、
1. 「少し」の意味で量の少なさ、程度の低さを表すのに用いられる。
2. 自分の行動や依頼の表現に程度の婉曲の表現として用いられる。
3. 否定的な意味の語や否定表現「〜ない」をともなって、否定を和らげるのに用いられる。
4. 後に続く否定的な内容を暗示させ、言いにくいことを回避するのに用いられる。
5. 人の注意を引き付けるのに使われる。主に呼びかけ。
6. 程度の低さより、普通以上に評価するプラス評価の意味を持つ。
分析した12種類の初級教科書の中で、文型3の「ちょっとした〜」と意味・用法6のプラス評価は見られなかった。また、意味・用法の5には、呼びかけ以外に「ちょっと!何やってるの!」など非難や哀願などの気持ちを表現するのにも用いられるが、今回調べた初級教科書では全く扱われていなかった。従って「非難や哀願の意味を表すちょっと」は除いて、意味・用法分類と文型を合わせて、本稿では以下のように体系化する。
1.量の少なさ・程度の低さ「ちょっと」
2.程度の婉曲「ちょっと」
3.否定的意味の和らげ 3.1.「ちょっと」
       3.2.「ちょっと・・・ない」
4.否定の暗示「ちょっと・・・」
5.呼びかけ「ちょっと」

3. 予備調査: 日本語上級学習者へのアンケート調査
 次に、「ちょっと」が学習者にとって一筋縄ではいかない語であるということをアンケート調査の結果から見ておきたい。
3.1 被験者
 彭(1994)の説明する「ちょっと」という語彙の難しさについて、それがどの程度日本語学習者において一般的なものか調べるために、本学国際文化学科日本語専攻に在籍する学部留学生19名にアンケート調査した。全員韓国または中国の出身で、日本語能力試験1級合格以上の実力を持ち、在日期間は2年から5年である。
 今回日本語初級教科書を分析することが主眼であるのに、わざわざ上級者にアンケートした理由は二つある。ひとつには極めて上級(ACTFL OPI の超級と言っても良い)の彭(前掲書)が訴える「ちょっと」の難しさが、他の上級学習者にも共有されるものかどうかを調べるためである。もうひとつには、上級学習者の方が、それまでの自己の日本語学習の流れ全体を見通した上で「ちょっと」を習ったかどうか、理解・運用の能力があるかどうかについて客観的に判断できると考えたからである。
3.2 調査方法
 上級学習者に自分が「ちょっと」の意味・用法を理解しているかどうかを判断してもらうアンケート調査を行った。アンケート用紙は、「ちょっと」の意味・用法が網羅的に収録されている『日本語文型辞典』の「ちょっと」のページ(pp.223-225)をコピーしたものを使用した。「ちょっと」に関する説明と例文を読んで、(○)自分が意味・用法を良く知っていて使える (△)聞いたことはあるがよく知らないので使えないまたは使ったことがない (×)全く意味・用法を知らないまたは聞いたことがない の3段階に分け、加えて、特に学習者にとって難しいものはどれかも尋ねた。被験者は、この課題をこなすのに十分な日本語能力があるので、調査の内的妥当性はあると考える。また、調査者がプライバシー等の倫理面にも配慮しながら、正直に答えてくれるよう依頼したので、自己申告の調査であるが意図的に事実と異なる記述がなされていることは考えにくい。
3.3 調査結果
 今回調査したところでは、「ちょっと」の全ての意味・用法を知っていて使える(○)と答えた者は一人もいなかった。表1を見ると、興味深いのは項目4と6の「プラス評価」についてで、×回答が最も多かったのだが、「聞いたことはあるが、プラス評価だとは知らなかった(△)」と「聞いたことがない(×)」という答えとを合わせると、80%以上となったことである。書き込まれたコメントによると、「「ちょっと」というのは、「少し」だと最初に習ったのでプラスの意味があり得ることは知らなかった」というのが大方の反応であった。

項目

×

1

18

1

0

2

10

8

1

3

4

9

6

4

3

6

10

5

14

5

0

6

3

8

8


 被験者は少ないが、上級になっても「ちょっと」の用法が完全には理解されていないことがはっきりした。今回の被験者は前述のように、本学学部留学生であり専門科目も日本人大学生と同様に受講できる日本語能力を有している。その彼等においてさえ、「ちょっと」という語が十分に理解されていないということは、彼等を育ててきた初級および中級レベルの日本語教育の問題点が露呈していると解釈してもよさそうである。学習者自身は「ちょっと」ということばに出くわすと「既習語である」と認知してしまって、微妙なニュアンスの違いまで理解する必要を感じないので、特に努力しようとも思わないということであろう。しかしそれを指摘されたり指導を受けたりする機会もなかったのは問題であろう。 
 「「ちょっと」に「少し」以外の意味・用法があったことに驚いた」と答えた被験者もいたので、こちらが驚いた程である。学習者本人の気付かないところで、日本語母語話者との齟齬が生じていないとも限らないという疑念を抱いてしまうが、被験者の「ちょっと」の使用実態等に関する詳細は今回の調査の範囲を超えているが、今後調査する価値があると思われる。

 分析対象教科書
 次に、「ちょっと」について複数の意味・用法を確かめ、それぞれの意味・用法がコミュニケーション能力を重視する初級教科書で教えられているか否か、教えれられているならば、どのようなコンテクストで用いられているか、説明はどのようになされているかについて考察していきたい。
 市販されている教科書全てを分析することは、現実的に不可能であったので、以下の教科書を選んで分析した。分析対象教科書と略称(<>中)は以下の通りである。
JAPANESE FOR BEGINNERS <J.F.B>(1976)学研
日本語初歩 <初歩>(1981)国際交流基金
A COURSE IN MODERN JAPANESE <C.M.J.> (1983)名古屋大学
BUSINESS JAPANESE <B.J.>(1984)日産自動車海外部
文化初級 氈E <文化>(1987)文化外国語専門学校
新日本語の基礎 氈E <基礎>(1990/1994)スリーエーネットワーク
日本語で話そう 1〜2 <話そう> (1991)ELEC
Situational Functional Japanese 1-3 <S.F.J.> (1991-92) 筑波ランゲージグループ
日本語初級 氈E <初級>(1991)東海大学留学生教育センター
TOTAL JAPANESE 1 <T.J.>(1994)早稲田大学 国際部
Japanese: the Spoken Language <JSL>(1987)Yale University
初級日本語 東京外国語大学留学生センター

 本稿でこれらの教科書を選んだ理由は次の通りである。即ち、1)時代を代表するような有名で評価が高いもので、過去に広く使われた、または現在も広く使われているものであること 2)副教材でなく主教材であること 3)四技能の習得を満遍なく目指すと明記してあるか、または少なくとも話す能力をつけることを目指すと明記してあるものという3点である。

5.初級教科書における「ちょっと」
5.1 「ちょっと」の各項目別提出状況

 以上の分類に基づいて、分析した初級教科書のうち扱われているものと扱われていないものをまとめて表2にした。表と表中の記号の見方は以下の通りである。また、表中の番号は、上の分類に準拠している。

  表2 「ちょっと」の意味・用法の教科書の扱われ方
        意味・用法

     

    
 
教科書 1   3.1 3.2
S.F.J. ◎*     ◎* ◎* ◎* ◎*
文化初級 ○          
日本語初歩          
B.J.      
J.F.B.        
日本語初級          
新日本語の基礎        
日本語で話そう    
C.M.J. ○*        
T.J. ○        
J.S.L. ◎* ◎* ○* ◎*    


◎*;ダイアログに提出され、練習問題、説明がある
◎ ;ダイアログに提出され、練習問題がある
○*;ダイアログに提出され、説明がある
○ ;ダイアログに提出されるが、練習・説明なし
△ ;語彙の紹介のみ

 表から考えられる点には、下記のようなものが挙げられる。
a. 「少し」の意味で用いられる「ちょっと」(分類1)は、意外にも学習項目にあまり入っていない。
b. 程度の軽さ・依頼の婉曲表現(分類2)は、どの教科書でも比較的よく扱われている。
c. 「ちょっと」を会話表現として重要視している教科書(書名を入れる?)とそうでない教科書(書名を入れる?)の差がみられる。
d. 特に<S.J.F.>には、詳しい説明が教科書に記述されているが、他の教科書で教師によって説明されるようになっている可能性もある。
e. 語彙としてのみ提出される場合、学習者は実際に使えるようになることを期待されているのだろうか。

 また、「ちょっと」が用いられるのは一つの課にとどまるのか、既習の語として後のダイアログでも頻出しているのかなど表からだけでは読み取れないこともある。したがって、次に項目ごとにどのようなコンテクストで出てくるのか、練習にはどのようなものがあるのか、そして教科書ごとにどのような特徴がみられるのかについて内容を考察する。

5.2 分類ごとに見る「ちょっと」の扱われ方
5.2.1 量の少なさ・程度の低さ「ちょっと」
 「ちょっと」は、どのようなダイアログの中で提出されているのだろうか。カテゴリー1の「少し」の意味での「ちょっと」については、語彙のみ掲載してあるのが二冊で、他の用法で用いられているところに、本来の意味は「少し」であるという説明または訳語がついている。<S.F.J.>では、体の調子について発言する際の「ちょっとのどが痛い」など(S.F.J. 9課)の他に、「もうちょっと・・・」(S.F.J. 10課)や「ちょっと・・・すぎる」(S.F.J. 20課)の表現も提出されている。<文化初級>では、15課で「(AとBと)どちらが・・・ですか。」という表現を学習する課で「・・・のほうがちょっと・・・」という形が、また「ちょっと・・・すぎる」の形もここで提出されている。(引用における下線は筆者による。以下同様。)

不動産屋:このアパートは総武線の東中野と東西線の落合の間です。
西条敬子:どちらの駅のほうが近いですか。
不動産屋:落合の方がちょっと近いです。
でも、どちらもだいたい同じくらいですよ。 ・・・ (文化 15課)

 話し言葉では、「少し」の代わりに「ちょっと」を使うことは頻繁にある。むしろ後者の方が多いかもしれない。それにもかかわらず、扱っていない教科書が少なくない。その点は、教科書自体が改良されるか、教師の方で情報を与えた方がよいと思われる。

5.2.2 程度の婉曲「ちょっと」
 項目2の程度の軽さ・依頼の婉曲は、他の項目と比較して最も提出の割合が高い。今回分析した中では聞き手に対して用いる場合、会話の開始部で話を切り出す/依頼する/勧誘の表現とともに用いる三種類がみられる。また、話し手自身の発話では、挨拶のコンテクストで「おでかけですか」「ええ、ちょっと○○まで」という決まった形として提出されている。また、苦情を婉曲的に言うときの表現がある。教科書のダイアログ中あるいは例文中に出てくる「ちょっと」のそれぞれのパターンについて簡単なコンテクストを添えて次に示す。

−何か尋ねる際の切り出し
記者が道で通行人にインタビューする:
「すみません、ちょっとうかがいたいんですが・・・」(文化 25課)
図書館で司書に尋ねる:「すみません。ちょっとおねがいします。」(初歩 14課)
バス停で知らない人に:「ちょっとうがかいますが。」(C.M.J. 5課)
 道で知らない人に:「ちょっとうかがいますが。」「はい。」「上野駅、こちらのほうですか。」「そうです。もう少し先にあります。」「あ、わかりましたどうもありがとうございました。」(JSL 6課)
仕事仲間に:「ちょっとお願いが あるんですが・・・」(基礎 39課)
ホストファミリーに:
「あのう、お母さん、ちょっとおねがいが あるんですけど。」(T.J. 19課)
教師の部屋を訪ねて:
「失礼します。 ・・・先生、今 ちょっとよろしいでしょうか。」(T.J. 19課)
「あの、ちょっとよろしいですか。」(S.F.J 8課)

−依頼表現のなかで
デパートで店員が客に電池交換を説明する:
ちょっと開けてみてください。」(文化 26課)
引越しで運送屋に(文化 27課)/図書館で司書が(初歩 14課)
/受け付けで客に(基礎 2課):「ちょっと待ってください。」
司書が図書カードの記入について(初歩 14課)
  /病院で医者が患者に(文化 16課):「ちょっと見せてください。」
知り合いに本について:「ちょっと見ても いいですか。」(話そう 1-7課)
電話で:「ちょっとお待ちください。」 (話そう 2-4課)(J.F.B. 6課)(S.F.J. 18課)
知り合いに通訳を頼む:「ちょっとつうやくを してください。」(話そう 2-6課)
教師に手紙をみてもらう:「お礼の 書き方が よく わからないんです。
       それで、ちょっと見ていただけないでしょうか。」(T.J. 19課)
家を訪ねてきた客に:「あ、良子さん。今、ドアをあけますから、
    ちょっとお待ちください。」(文化 21課)
コピー機の使い方を教える:「ちょっと一枚だけ、やってみて。」(S.F.J. 20課)

−勧誘表現で
飲みにさそう:「ジョンソンさん。ちょっといっぱいどうですか。」(話そう 1-4課)
知り合いと外を歩いていて:
「ああ、あついですね。」
  「そうですね。ちょっと休みたいですね。」 (話そう 2-1課)
イタリアンレストランを見つけて:
「いい みせですね。 ちょっと行ってみませんか。」(話そう 2-2課)
「ちょっとコーヒー(を)飲みましょうか。」「ええ、飲みましょう。」(JSL7課)

−自分の行動
不動産屋が客に部屋をみせる:「ちょっと開けてみましょう。」 (文化 27課)
挨拶で:「おでかけですか。」「ええ、ちょっと銀座まで。」(話そう 1-4課)
「どちらへ。」「ちょっと郵便局まで。」(S.F.J 2課)
   「ちょっと銀行まで行ってきます。「「行って(い)らっしゃい。」(JSL7課)
<JSL>では人を紹介する時に、必ず言われるわけではないがよく使われるとして提示している。
N: ちょっと御紹介します。こちら、文部省の渡辺さん。こちらは東大の大野先生。
J1: 渡辺でございます。初めまして。
J2: 大野でございます。どうぞよろしく。(11課)

ホストファミリーに:「ぼく、ちょっとでかけてきます。」(T.J. 3課)
学生が教師に許可を求める:「あの、ちょっとこれコピーしてもいいですか。」
(S.F.J 8課)
−苦情
控えめに苦情を言う:「ちょっと、テレビのおとが・・・。」(S.F.J. 21課)

 設定は、どれも聞き手は知らない人、あるいは目上の人や近所の人、仕事仲間といった知り合いで丁寧体を用いて話す相手になっている。例外は<S.F.J>の3課で、「少し待ってください。」の言い換えとして「ちょっと待って。」が親しい間柄に使われると紹介されている。<文化初級>と<日本語で話そう>、<S.F.J>では、婉曲の「ちょっと」が提出された後の課のダイアログにもよく用いられている。また、程度の軽い「ちょっと待ってください。」は、それ自体まとまった表現として「just a moment please」という訳語を添えて紹介してある場合が多い。
 練習問題がある教科書では、全てに共通して二人のモデル会話の一部をいれかえる代入ドリル形式の会話練習になっている。その他に<S.F.J>には、会話の進め方をパートナーと選択しながら練習するよりコミュニケーション能力を伸ばすためのドリルやロールプレイがある。
 内容は、話の切り出し<S.F.J.><T.J.><基礎>、依頼<S.F.J.><T.J.><文化>、電話での応対<話そう><S.F.J.>、自分の行動<S.F.J.><話そう><文化>となっていて、全てのパターンを練習問題に提出している教科書は<S.F.J.>のみである。また、苦情の婉曲表現「ちょっと」を扱っているのも<S.F.J.>だけである。

5.2.3 否定的意味の和らげ「ちょっと」と「ちょっと・・・ない」
 分類3の否定表現とともに用いる「ちょっと」の形 3.1は、六つの教科書に見られる。しかし、<文化初級>では、様態の「そうだ」の例に以下のように出てきている。

京子:「良子さんのコートは暖かそうですね。」
良子:「ええ、暖かいですよ。でも、ちょっと重いんです。」(文化 23課)

ここでは、別の練習項目のダイアログに偶然現れたにすぎないので、意識して否定の「ちょっと」を提出しているかは不明である。他に「古い」「難しい」などとの組み合わせで提出されているものに<話そう 2-2課><B.J. 7課><C.M.J. 3課><S.F.J. 23課>がある。これらの否定的意味を持つ語と結びつく「ちょっと」は、<文化>の例で述べたようにどの教科書でも特に学習のポイントとなっているわけではなく、グループ1「少し」の意味の「ちょっと」と区別されていないと考えられる。<JSL>では「遅く(なる)」「早い」との組み合わせで使用されており、この範疇に入れられる。
<JSL>
J: 来週、またいらっしゃる?
N: また来ますけど。
J: わたくし、ちょっと遅くなるけど。
N: でも、いらっしゃるでしょう。
J: ええ、10時までには。(JSL9課)
同僚の会話:
J:帰るの?
N: うん、おさきに。
J: ちょっと早いんじゃない?
N: うん、用事があるの。
J: じゃあ、また。(JSL9課)  

 <日本語で話そう>では、他に電話での応対ダイアログにも提出されている。
・・・
B: ・・・ご主人 いらっしゃいますか。
A:今、ちょっと 外出中ですが。(かいわ1)
あ、今、ちょっとでかけておりますが。(かいわ2)
・・・ (話そう 2-4課)
<JSL>でも家族の不在を告げる状況で使われている。
A: お兄さんいらっしゃいますか。
B: 兄ですか。ちょっとおりませんけど。(11課 Drill)

 <新日本語の基礎>では、断り表現として例文が示されていて、会話の代入練習がある。

(例文)「あした 一緒に 映画を 見に 行きませんか。
あしたはちょっと都合が 悪くて、 行けません。」(基礎 39課)

 <C.M.J>の練習は、イ形容詞を学習する3課で「Nが(ちょっと)むずかしいです。」の名詞を入れ替える代入ドリルのみになっている。
 カテゴリー3.2「ちょっと・・・ない」の形については、<日本語で話そう>の1-6課の存在文「います/あります」の学習項目についてのドリルで「Nはありますか。」に対して否定的に答える「ちょっと ありませんね。」の練習がある。また同教科書の2-6課では、下のようにモデル会話に用いられている。

A:グリーンさん、あしたの パーティーに 行けますか。
B:ああ、あしたは ちょっと 行けないと 思います。 仕事が あるもんですから。
A:そうですか。 ざんねんですねえ。
B:ええ。また さそってください。 (話そう 2-6課)

ここでの練習は断りとその理由を「・・・もんですから」の形で言う変形ドリルになっている。
 <S.F.J.>の5課では、「わからないことばを聞く」というコンテクストの中で、留学生にことばの意味を聞かれた日本人学生が答えられない場面に使われている。
・・・
ブラウン:コンパって、英語で何ていうんですか。
山下 :ううん・・・、コンパニーかな。
ブラウン:どうしてコンパニーがコンパなんですか。
山下 :ううん、困ったな。ちょっとわからないな。
・・・ (S.F.J. 5課)

この教科書では、4課ごとに<まとめ>があるが、<まとめ2>否定的な答えをする際にためらいや曖昧さを表現することで聞き手を傷つけないという説明が次の否定の暗示「ちょっと・・・」とまとめてなされており、「ちょっと」の使用目的の説明として優れている。
 「断り」という機能について教科書と実際の会話との比較調査を行なった研究(ラオハブラナキット 1995)によると、日本人の「断り」においては「ちょっと」という言語形式が多く観察されているという指摘がある。従って、上で見たような会話は、現実的コミュニケーションと結びついていると言える。

5.2.4 否定の暗示「ちょっと・・・」
 次に、いい差しの「ちょっと・・・」である。<日本語初級>では、動詞の過去普通体を学習する17課のダイアログの中で、勧誘の断り表現にでてきているが、新出文型としても練習でも特に扱われていない。<文化初級>でも同様に9課で許可を求める表現を提出しているが、断りの表現「Aはちょっと・・・。」は例文で一度出てくるだけである。ダイアログや練習でも扱われるとさらに良かったのではないか。
 <B.J.>では、ダイアログ中ではなく<Additional Useful Expressions>で下記のように提出されている。

 A:Can (you) reduce the price for this? Kore wa nebiki dekimasu ka.
 B:This is a bargain, so [imp. it won't Kore wa tokkahin desu kara,
be reduced.]    chotto・・・
      (B.J. 12課)
また、ここでの「chotto」には、(I)'m afraid not [lit. a little (difficult)]という訳が語彙の部分でつけられている。<C.M.J.>の11課では、しかしいい差しの「ちょっと・・・」に「not available」の訳がつけられている。ダイアログを見ると、確かにこの訳はふさわしいが、学習者が会話に応用できるのか疑問である。ダイアログは、図書館で本を借りる場面である。
・・・
ルイン:それから、きょうはこの本を借りたいんですが。
司書 :あ、その本はちょっと
ルイン:え。
司書 :黄色いラベルのついた本はだめなんです。
・・・ (C.M.J. 11課)
<T.J.>では、勧誘を学習項目にしている6課のダイアログに断り表現として提出され、二人の会話代入練習もある。ここでの表現訳も「I’m afraid not」となっている。また、同教科書の依頼表現を学習する19課では、ダイアログにはないが、依頼を断る際の表現として会話練習がある。
 <日本語で話そう>には、1-4課で勧誘に対する断り、1-7課で許可を求められて否定するという二パターンについて、それぞれモデル会話、二人での会話練習がある。二つのモデル会話を下に示す。

A:ジョンソンさん。ちょっと いっぱい どうですか。
B:すみません。 きょうは ちょっと・・・。まだ しごとが ありますので。
A:ああ、そうですか。 じゃあ、また この つぎ。
B:ええ。 (話そう 1-4課)

A:あのう、ここに すわっても いいですか。
B:あ、ここはちょっと。 スミスさんが いますので。
A:そうですか。
B:あ、こちらに どうぞ。
A:はい。 しつれいします。 (話そう 1-7課)

<S.F.J.>では、3.2.3 で述べたように、<まとめ2>でためらいをともなった間接的否定表現と説明されている。許可を求める機能を学習項目とする8課では、ダイアログにはでてこないが、求められてた許可に対しての断り方として提出されている。その際、「・・・ないでください」は、直接すぎて丁寧でないという説明も加えられている。他にも、17課<友達を誘う>や、23課の<頼みと断り>を中心に課を問わずに頻繁にダイアログ中にも練習にも出てくる。
 自然な日本語を強調している<JSL>では、誘いを断る「ちょっと。」は1課で提出されているのが目をひく。
 J: しませんか。
 N: ちょっと。(1課)
 J: しませんか。
 N: わたしですか。ちょっと。(2課)
ここで「この否定形は誘いであり、「ちょっと」は丁寧な拒否である」(原文は英語。訳は筆者。)という説明がある。いずれの会話も、場面はいろいろに設定でき応用可能である。

5.2.5 呼びかけの「ちょっと」
 この聞き手の注意をひく呼びかけの「ちょっと」が提出されているのは、<日本語初級>と<S.F.J.>、<T.J.>の3冊である。そして、その3冊とも会話の開始の機能として扱われている。<日本語初級>のダイアログは、友達同士の会話である。

リー:「ちょっとちょっと、きれいな人だね。」
キム:「えっ、どの人。」
リー:「ほら、あそこ、あの赤いセーターの。」
キム:「あ、ほんとだ。あれは女優の山川みどりじゃない。」
・・・ (初級 17課)
練習でもこのモデルを用いて二人で会話するようになっていて、「ちょっとちょっと、・・・」のように「ちょっと」を二回繰り返す表現で固定されている。
 <S.F.J.>では、1課ですでに会話の始め方として「ちょっと」が扱われている。 ダイアログは、パーティーで教師が学生に話しかけるコンテクストである。

木村:ああ、山下くん。ちょっと
山下:はい。あ、先生。こんにちは。
木村:こんにちは。 (S.F.J 1課)

そして、「○○さん、ちょっと」の形で呼びかけるのは目下の人に向かってのみ使われ、教師や目上の人などに話しかける場合は「ちょっとすみません。」を用いるようにと丁寧な説明がなされている。この教科書は会話の開始部・中間部・終了部という全体を常に意識してあるため、ダイアログや練習にも頻出している。
 <T.J.>では、勧誘を学習項目とする6課で日本人学生が留学生に話しかける表現としてダイアログで用いられている。

森 :あ、カレンさん、ちょっと
ロペス:はい?
森 :あのう、あした てんらん会を 見に 行きませんか。
・・・ (T.J. 6課)
新出表現として Vocabulary一覧に 「excuse me (for a moment)[casual]」と訳されているが、呼びかけについての会話練習は特にない。
 他の教科書には呼びかけの「ちょっと」は提出されていないが、実際にはよく使われているし、会話の開始としてダイアログで扱うことは難しくないであろう。

5.2.6 まとめ
 以上、「ちょっと」の用法別に見てきたが、「依頼−断り」や「呼びかけ−依頼」のように同じダイアログや会話練習モデルの中に二つの「ちょっと」を使ったものも見られた。<T.J.>の会話練習モデルを紹介する。

A :山口さん、ちょっと[てつだって]いただけませんか。
山口 :今ですか。今は ちょっと・・・。
A :[あとで いい]んですけど。
山口:あ、そうですか。じゃあ。 ([]内を入れ替える代入練習)

 提出の順序は教科書により様々である。「少ない」の意味の「ちょっと」(分類 1)が基本的な意味として第一に提出されているのではないかと推測したが、必ずしもそうではないことがわかった。例えば<T.J.>では程度の婉曲と否定の和らげ(3課)、呼びかけと否定の暗示(6課)の後に12課で初めて量の少なさ「ちょっと」が提出されている。また、<S.F.J.>では、8課までにほとんどの「ちょっと」を扱っている。<J.S.L.>では、誘いを断る「ちょっと」(分類4)が第一課で扱われているのは、注目に値するであろう。
 全体の練習問題については、一文の単語を入れ替える単なる代入ドリルもいくつか見られたが、二人による会話代入ドリルがほとんどである。「ちょっと」は、話し手と聞き手の相互行為の中で用いられることがほとんどなので、後者の練習のほうがより現実に合致しているといえる。また、上で述べたように<S.F.J.>には、チャート式の会話練習がある。

6.おわりに
 本稿では 会話の機能語「ちょっと」を切り口にして、初級教科書を分析してきた。「ちょっと」という語の難しさは、上級学習者へのアンケート調査から検証したように、平易な語彙だと考えている今回の被験者のうち一人も「ちょっと」の用法全てを知るものはいなかった。また、耳にしてはいても、正しく理解していないことを悟った被験者も多かった。これは、学習者一人一人の努力不足と言うよりは、日本語教育のあり方の問題点と捉えるべきではなかろうか。
 もちろん「ちょっと」の用法について調べることだけで、コミュニカティブな教科書であるかどうかを判断し切ることはできない。しかし、「ちょっと」という意味・用法は、実際に会話の中で依頼や呼びかけ、許可やその断りなど言語行動の広い範囲で社会言語的に極めて重要なはたらきをしている。つまり、日本語社会のコミュニケーションルールに則った会話を進める上で大切な多くの機能を持つ語の一つだと考えられる。そういう前提の下に「ちょっと」の教科書での扱いを見てみると、コミュニケーション能力の習得を目指す教科書の中には、その目標が教科書の内容に反映されていないものもあることがわかった。その意味で、「ちょっと」という語を切り口にして初級教科書の特徴と問題点を把握しようとする当初の目的は達せられたのではないかと考えている。
 「ちょっと」という語は、今回調査・分析した全ての初級教科書で扱われており、基礎語彙として存在が認められていることは明確である。しかし、本稿で報告した上級学習者の理解にかなりばらつきがあったことから推測するに、中・上級の日本語教育では「ちょっと」は既習語彙として、未習の意味・用法が顧みられることなく学習が進んでいってしまうのではないだろうか。初級教科書でのこの語の扱い方は様々であって、学習者が「ちょっと」の意味・用法のどれを、どんな順序で習い、またどんな文脈や例文で習ったのか、どの程度練習したのかということは、初級で使用した教科書によってかなり異なってくる。初級教科書では全く取り上げられていない用法についても、中・上級の教科書での扱いはどうなっているのか、未習のまま放置されているのではないか、調査・検討する必要があるだろう。とりわけ、国内・海外の日本語学習者の多くが目標としている本学学部生のような上級学習者においてさえ、十分に理解されていなかったという事実は、日本語教育の中・上級レベルの現場でも指導が十分にはなされていないことがままあるということを示唆するものであり、日本語教育現場で取り組むべき今後の課題であると言えよう。
 「ちょっと」は、私たちが日常会話でよく使っていることばである。話し手と聞き手の相互行為によく用いられるということは、人間関係を保つために重要な機能を果たすことばだと言える。「ちょっとした」ことばだが、より厳密で豊かな日本語を習得したいと願う学習者には、重要な学習項目と言えよう。また、コミュニケーション能力に重点を置く教科書にも同じ事がいえるであろう。簡単な語彙だ、平易な用法だと安易に片付けてしまうことは学習者の日本語上達を助けることにはならないということを確認し、初級ならびに中級教科書を、どのように改良していけるのか具体案を考えていきたい。

【参考教科書】
ELEC (1991)『日本語で話そう 1〜2 』
川瀬生朗他著 (1961)『日本語初歩』国際交流基金
ジョーデン、エレノア (1987)Japanese: the Spoken Language. Yale University
スリーエーネットワーク編 (1990/1994)『新日本語の基礎 氈E』スリーエーネットワーク
筑波ランゲージグループ  (1991-92) Situational Functional Japanese 1-3
東海大学留学生教育センター (1991)『日本語初級 氈E 』
日産自動車海外部編(1984)Business Japanese
文化外国語専門学校編 (1987)『文化初級日本語 氈E』文化外国語専門学校 凡人社
吉田弥寿夫他著 (1976) Japanese for Beginners 学研
早稲田大学 国際部 (1994)Total Japanese 1
(1983)A Course in Modern Japanese 名古屋大学

【参考文献】
岡崎敏雄(1989)『日本語教育の教材 ----分析・使用・作成』NAFL選書7 アルク
岡崎敏雄・岡崎眸(1990)『日本語教育におけるコミュニカティブ・アプローチ』凡人社
川口義一(1993)「日本語教育と教科書」『日本語学』Vol.12 3月号
グループ・ジャマシイ 編著(1998)『教師と学習者のための日本語文型辞典』
 くろしお出版
国立国語研究所(1983)『国立国語研究所報告77 敬語と敬語意識 --岡崎における20年前との比較-- 』三省堂
仁田義雄(1989) 『日本語のモダリティー』くろしお出版 (本文では触れていないので削りましょう!)
バルバラ・ピッツィコーニ (1997)『日本語教育基礎研究シリーズ4 待遇表現から見た日本語教科書 ---初級教科書五種の分析と批判---』くろしお出版
彭 飛 (1990)『外国人を悩ませる日本人の言語習慣に関する研究』和泉書院
彭 飛 (1994)『「ちょっと」はちょっと・・・』 講談社
凡人社編集部(1999)『日本語教材リスト 1999-2000』凡人社
カノックワン・ラオハブラナキット (1995)「日本語における「断り」---日本語教科書と実際の会話との比較---」『日本語教育』87号 pp.25-39

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